柱の傷

 母が住んでいる賃貸マンションの押入れの奥に高さ180センチほどの木の板を1枚隠してある。実家を売り払った際に私がこっそり持ってきたものでたぶん母は知らない。
 父が死んで家を売るにあたって古い裏屋を取り壊すことになり、置きっぱなしになっている大量の荷物を整理していた。その時に目に入ったのが、一本の柱に引かれている無数の赤青鉛筆の線で、横には月日と名前が印されていた。五月五日のこどもの日父親が柱に線を引く、なんてすっかり忘れていたのだが、柱を眺めているうちに毎年必ず私の名前が一番上にあるのを発見してにやけてしまった。あの頃は「ねえさん、ねえさん」とくっついて離れなかった弟妹もいまや名前を呼び捨てるし、身長だっていつの間にか追い越されてしまった。そんな私にも誰から見ても姉だった時があったのだ。いよいよ裏屋を解体する日、大工達が屋内で準備を進めるのを眺めていた私にある考えが浮かんだ。そうだあの柱を持っていこう。柱を真っ二つにしてもらうしかないかなどとよくよく見れば、身長が刻まれた部分は柱そのものではなく柱に貼られた一枚の板だった。「おじさん、その板はがせる?」にこっと笑った大工の手によって板はいとも簡単にはがされ、私は過去を手に入れた。ねじれた釘がささったままのその板を私は意気揚々と家族に見せた。ところが、誰も懐かしんだりしなかった。母は一瞥し「まさか、それ持っていくつもりじゃないでしょうね」と静かに否定した。妹も弟も「頭おかしいんじゃないの」とあきれている。そもそも実家がなくなるということに対していつまでも抵抗しているのは私だけだし、この家族は物事全般に執着心がない。私は「ちょっと見せただけ」と言葉を濁し、引っ越すその日まで、板を自分の部屋のクローゼットにしまいこんだ。
 引越し当日、トラックへ荷物を運び入れている業者に人目を盗んで板を渡して一足先に新居へ向かった。新居に家財道具を入れるのは私と妹の役目で母と弟は後から来る。妹さえ口を開かなければ万事OK。まあ、ばれたとしても、そんな大きな板簡単には捨てられないだろうし持ってきたもん勝ちだからどうってことない。それからもう何年も経った。一度も押入れは開けていない。ひっそりと眠っている1枚の板の事を考えながら柏餅を食べた。