今朝、目覚めたら、なんだか蔵王の麓の夏休みのような空気がして気分がよく、そのまままどろんでいたのだが、煙猫が空を切る怪しげな踊りを始めたので仕方ないなと体を起こした。よく見れば煙猫の視線の先にはブンブンと飛ぶ一センチくらいの大きな蝿が一匹。ああ、夏の空気を作っていたのはこいつの羽音だなと納得し、しばらく煙猫の大捕物帳を眺めていた。
 それから、かかせない休日の仕事は洗濯ですよと重い腰をあげて洗濯機を回し、屋上で脱水の終わったシャツを干していた時にふと母を思い出した。私が洗濯物を干すときまって「あなたが干すといつもこう、だらしない。」と眉間にしわを寄せて言うのだった。もちろん今日も、洗濯機から出して一度パンッてふっただけで襟元もなにも気にしないでハンガーにかけていたのだが、どこかで母が見ているような気がして落ち着かなくなり、今日ばかりは文句のつけようのないくらい丁寧にシャツのしわをのばした。
 
 母は昨年亡くなり私自身も母親ではないから、全く縁のない母の日なのだけど、ぼんやりそんなことを思い出したので。

 

 携帯のメールで宛先なしのまま本文にメモを取ることがよくあって、私の未送信メールフォルダは投げっぱなしの言葉で埋もれています。本日そのフォルダの棚卸をしました。
 下記は2月28日乗っていた電車が人身事故にあったときのもので、私は先頭車両にいました。たぶんリアルタイムでとったのではなくて少し時間が経ってから書き殴ったのだと思います。

>>
ベージュのブリーフケース、黒に蛍光赤橙の三本線アディダスのスニーカー
お茶の水28分の前の電車、中央線下り中野駅、先頭、警告音、ボンっていう鈍い音、停車、サイン音モールスみたいな、運転の電話、人身事故です、飛び込み、ブザー、各所へ電話、いつの間にかたくさんの所員、スーツに黄色い安全帯ヘルメット、せわしなく動く、しばらくしてアナウンス、6両目7両目どあ開けます、二両目の下、お客様の救護のため電気消します、大丈夫ですかー、っていうんだな、水色のスモック着てる人、JRの文字、黒いビニールの袋に入れられて車両のしたから反対側のホームへ運びだされる、隙間から顔かなちょっと皮膚が見えた、よくわからない、運びだされる感じで死んでるのかなって思う、消防のサイレン、消防の人到着、黄色いテープに青のビニールシートで囲ってる、警察かなビニールシートの中向けて写真撮ってる、私服の人もいて二人、こちら側のホームからはずっと見える、同じホームの反対側が動いてる(東西線上り)からか、人の規制立ち入り禁止はしないんだな、降りた人が何事かと見てはいなくなる、青いビニールシートはその外側に東京消防庁のオリーブ色のシートでおおわれてた、(最終的にそのまま移動)
バインダー持って書いてる人何人もいた、トランシーバーの音、現場責任者とかかれた安全帯の人、若い駅員さんホームで安全確認してた人だよね、飛び込んだ位置聞かれてた、階段の少し先、「あまり動いてないね(救助した位置)」 、ホーム移動しようとしたら柱のところに箱に入った白の使い捨て手袋、黒い鞄(中にビニールシートが見えた、こういう時のセットがあるのかな)、JRの人の帽子、黄色いテープなんかが無造作に投げ捨ててあった
総武線ホームに移動するとき、ちょうど遺体が駅の改札を出て行った
井の頭線一本待って10時45分乗る

帰り
中野駅のホーム見たけど普通に電車止まってた。そこで飛び込みがあったとは全くわからないいつもの風景
交通事故だと花手向けてあったりするけどホームには何もない。歩いてるひとたち知らないんだなと思ってなんだか
>>

take count of

 まだ明るいうちに家に着き布団に包まってヘリの音を聞いていたのだが、いつの間にか寝ていたらしく猫におこされて20時。今日は官邸前で原発再稼動中止の大規模なデモがあったらしく、それが重要事とは分かっていても今の私は自分の気持ちを保つのに精一杯でそちらに関心が向かない。20時に電話をかけると決めていたので、起こされたのも何かあるのだろうと、息を深く吸い、父方と母方の親戚一人づつに電話をした。毎度変わらず感情をださずぼそぼそ話す叔父に努めて明るく振舞う叔母。「アトイッカゲツガンバッテニカゲツトイウハナシデス、ヨロシクオネガイシマス。」電報のように手短に用件だけを話しとにかく任務終了。それから冷蔵庫を開け、携帯電話を使っていると受話器を置くという動作がないからどうも最後歯切れが悪いなどと古臭い事を思いながら、まだ食べ頃には時間がありそうな李をかじった。

 ――今季かじった李の数、五果

エゾ鹿バラバラ会に参加しました

 野生のエゾシカは見た事ないけど野生のカモシカなら見かけた事があるふきです。
 さて、思い立ったが吉日、えいっとid:sabatoikaさん主催のエゾ鹿バラバラ会に参加申し込みをしたものの、詳細が書かれたメールの持ち物の欄に包丁とあって(枝肉を解体して料理するのだから当たり前なのだけど)はたと、包丁持ってない!ということになり、あわてて一緒に行く友人に包丁もう一本コールをしました。自炊はしているのです、果物用のナイフ1つで。そんな私が無謀にも乗り込みました。申し訳ありません。

 不安のあまり良く眠れずに迎えた当日。

 脚を一本持ち上げてみたけどずっしり重かった。

 解体しています。皆さんの包丁さばきに惚れ惚れしつつ、私は骨から外された肉の筋などをとっておりました。
 使いたい部位を思い思いに選んで調理は始まっています。私は悩みに悩んだ末に結論として難しいものは作れない!のであり、鹿肉とネギで甘辛く煮付けました。一人暮らしの食卓を飾るような料理をおいしいと食べてくださった皆さんありがとうございます。料理頑張ります。精進します。その後は(その前も)フォーク片手に「ローストができた」と聞こえれば北へ行き「シチューができた」と聞こえれば南へ行きと調理台を巡っておりました。ごちそうさまでした。それでは皆様の作った素敵な鹿料理です。どれもとてもおいしかった!






 sabatoikaさん、ありがとうございました。

消えた場所、残るもの

 仕事を終えて大晦日の遅い電車は人もまばらで、来年への境目はぽんと飛び越えられそうな所まで近づいている。駅には終夜運転のお知らせが貼られていて、ああそうか、朝まで電車は動いているんだな、次は新年明けたばかりの東京の夜を楽しもう、などとぼうやり考えていた。
 秋、仙台に一人暮らす母の体調が思わしくなく妹夫婦と同居することになったため母の暮らしていた仙台のマンションを引き払った。蔵王の麓の実家を手放してからはこちらに帰省していたのだが、今回の事により帰る場所は消滅。まあ、さみしいけど根無し草はいいものだなんて思っていたのだけど、さっき電車に揺られながら年末にフミコと会わないのは初めてだと気づいて急に物悲しくなった。フミコとは19の時に知り合ってからというもの、毎年毎年仙台で催される光のページェントのカウントダウンを見にいった。年越しの瞬間にハッピーニューイヤーと言葉を交わした、続く事16年。彼女が結婚した2010年は30日にケヤキの下を歩いた。それが途切れた。その事実に歩きながら泣いてしまった。このままだと泣きながら新年を迎えてしまうよ、お正月に泣いたら一年中泣く事になるよって言った父の言葉が頭をよぎる。どうしよう気分変えないと、と半べそのまま部屋の鍵を開けたら煙猫が玄関にちょこんと座ってにゃおんと鳴いてすり寄ってきた。
 ただいま、もうすぐ新しい年が来るよ、一緒にお祝いしましょう。

 兎にも角にも一年が過ぎました。私はこれから人生初のお正月料理にとりかかります。よいお年を。(いつの間にか年越してますがお気になさらず)

風に飛ばされる以前の話

 ある本を読んでいて思い出した。小学生の頃はどの子も誕生日になると自ら招待状を書いて友達を呼び“おたんじょうかい”を開いていた。畳敷きのお座敷でサンドイッチやから揚げが入った大皿に何種類かのジュース、みんなでハッピーバースデイを歌ってケーキのろうそくを消した。わいわいとカードゲームなんかもしたように思う。花札もどんじゃらも初めて知ったのは確か友達の誕生会だった。
 大きくなるにつれ誕生日は誰かが祝ってくれるのを待つようになった。誰も私におめでとうを言ってくれないのではないかと憂鬱な時間を過ごすようになるのはなぜだろう。あの頃のように自分から「25日は わたしの たんじょうびです。おたんじょうかいをしますので ぜひきてください」と言えばいい。
 くさくさしてるようでいて、疎遠になっていた友達から電話が来て妹からメールをもらい小さい人からカードを渡されたのでハッピーバースデイ。ありがとう。

 
==
 当時、本屋は文房具屋を兼ねていたし、洋服と生地の店ではハンカチやリボンなどが買えたし、瀬戸物屋ではなぜかファンシーグッズが豊富だった。田舎ならではの混沌とした店内は何が出てくるか分からない面白さがあったな。